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創業者 新家熊吉

創業者 新家熊吉

初代熊吉

木製リム(当社致遠館)
       ▲木製リム(当社致遠館)

初代熊吉は、石川県の加賀の山村にある山中村にて元治元年、新本孫吉の次男として生まれる。翌年、漆器業を営む新家孫蔵の養子となり、山中漆器の木地挽職人として生計をたてていた。病弱であった養父孫蔵は、初代熊吉に職人としてのみならず経営に関しても非凡な才能を見出し、16歳という若さで家業を継承させた。 若くして初代熊吉が家業を継いだ頃、山中漆器は開国からの貿易拡大によって最盛期を迎えつつあり、増産が求められていた。この要請に応じるべく、試行錯誤しながらも数々の生産合理化を図り、わずか10年余りで漆器の一貫生産から販売までを行う製造問屋にまで成長した。更なる拡販を目指し海外に販路を求め行商を行った初代熊吉は、その旅路で自転車の車輪(リム)が木製であること、そして国内ではそのリムを輸入で賄っていることに着目し、「新家商会」を設立し、木製リムの製造に乗り出す。漆器製造のノウハウを活用しつつも研究が重ねられ、コストと品質面で輸入品に劣らない新家商会の木製リムは、国産の自転車に利用されるほとんどを一手に引き受けるまでに成長した。

初代熊吉(加賀市山中町)
  ▲初代熊吉(加賀市山中町)

しかし、時代の流れから自転車に使用されるリムは、鉄製に変わりつつあった。そこで鉄製リムにおいても一貫生産を目指し、海外視察の際に鉄製リム用製造機を購入し、また、長男の三代次※1をイギリスに研修派遣させるなど、いち早く鉄製リム製造に着手した。
苦心の末、なんとか漕ぎ着けた一貫生産の開始後は、機械の工夫・改良を重ねるものの、製品のサビや機械の故障などで製造は難航したが、折りしも第一次世界大戦下における輸入途絶により唯一の国内メーカーであった新家商会に注文が殺到し、大量生産を繰り返すうちにノウハウも蓄積されていった。
鉄製リム事業の確立に成功した初代熊吉は、更なる発展を目指し、大正8年11月25日、新家自転車※2を設立し、近代企業としての基礎を築いた。また、地域の資産家として叶V家銀行※3の設立にも携わった初代熊吉は、大正10年57歳で激動の人生に幕を閉じた。


※1 後の二代目熊吉
※2 現在の新家工業
  ※3 現在の竃k陸銀行

二代目熊吉

二代目熊吉(当社致遠館)
   ▲二代目熊吉(当社致遠館)

初代熊吉亡きあと、二代目熊吉を襲名した三代次は、新家自転車鰍フ社長に就任した後、国内の生産工場を拡大させ鉄製リムの圧倒的シェアを維持した。
昭和8年当時、自転車の国産化が進む中において、チェーンの国産化は遅れていたため、国産化気運が高まる日本の「国益に沿った事業展開を行う」べく、二代目熊吉は高性能チェーンの製造を決意し、当社の前身である「国益チエン梶vを設立した。

バイク用チェーン:DK415T(当社致遠館)
 ▲バイク用チェーン:DK415T※2(当社致遠館)

時代の潮流を敏感に感じ取りながら、「大同チエン梶vそして「大同工業株式会社」へと会社規模の拡大に際して、二代目熊吉は取締役社長として絶大な統率力を発揮する傍ら、初代加賀市長※1にも就任し、市政に大きく貢献した。また、次代を担う若い学徒に支援を行うため設立した財団法人新家育英会は現在も存続している。
国内初のチェーン国産化を確立し、大同工業株式会社を資本金約7億円、従業員数1,400名の企業にまで育てあげた二代目熊吉は、昭和39年75歳でその生涯を閉じた。
なお、二代目熊吉が創業の精神として制定した社訓は、現在も受け継がれている。


※1 昭和33年 町村合併により加賀市発足
※2 昭和38年 鈴鹿サーキットで日本初開催となっ
たバイクレース世界グランプリ(50ccの部)の優
勝マシン(ホンダ社製)に使用されていたチェーン

三代目熊吉

三代目熊吉
        ▲三代目熊吉

二代目熊吉の養子であった新家克巳※1は、昭和16年大同工業株式会社の取締役に就任以来、国内はもとより全世界においてDIDブランドの普及とチェーンメーカーとしての地位の確立を目指して奔走した。
特に、オートバイ、農業機械、コンベヤ部門への進出、また福田工場および動橋工場の建設・稼動を通じて、今日の大同工業株式会社の礎を不動のものとし、加賀の機械産業発展の一翼を担うまでに成長させた。
昭和39年に三代目熊吉を襲名した後も、常に卓越した経営手腕と先見の眼差しで、株式の一部上場など大同工業株式会社に飛躍的な発展をもたらし、昭和56年76歳で永遠の眠りについた。


※1 旧姓:伊藤 克巳